芸術と家庭・・・文学編(24)local_offer芸術と家庭
長島光央
恨みを乗り越え許す
菊池寛の『父帰る』
菊池寛と言えば、彼の戯曲『父帰る』(1917年)は非常に有名で、何度か映画にもなっているほどです。作品を知らない人が、「父帰る」のタイトルだけを聞けば、颯爽として、意気揚々、晴れ晴れとした姿で帰ってきたのか、それとも罪人が敷居の高い我が家へ踏み入るように、申し訳なさそうに帰ってきたのか、どちらなのだろうかと考えるかもしれません。その答は後者です。家を出たことへの罪悪感を覚えつつ、恐る恐る戻ってきたのです。
黒田宗太郎は、妻のおたかと長子の賢一郎、次子の新二郎、娘のおたねをのこして忽然と家を出ました。女を作って、女房、子供を捨て、家を出たわけですが、20年の歳月を経て、やつれ果てた姿でわが家へと戻ってきたのです。宗太郎が家を出たとき、妻おたかは31歳、賢一郎は8歳、新二郎は3歳、おたねはお腹の中にいたか、生まれたばかりかという年齢でした。
弟や妹を学校に通わせるために一生懸命働き、父親の代わりに一家の大黒柱となって母を支えてきた長男の賢一郎は、夫のいない中、3人の子供を育てあげたおたかの苦労がいかばかりであったかを間近に見てきたため、家出した父を許せない思いで一杯でした。そんなところに、父が帰ってきたのです。
妻のおたかはただただ懐かしい思いで夫を許し、家に入れます。次男の新二郎も父の帰
りを喜びます。娘のおたねも成長した自分の姿を見せ、お互いに顔も知らなかった父娘は
喜び合います。
しかし、問題は一家を支え、家を出た父の代わりとなって苦労に苦労を重ねてきた賢一郎の気持ちでした。この『父帰る』の山場は、父の宗太郎と長男の賢一郎の激しいやりとりにあります。正論を吐く賢一郎の一つ一つの言葉に対し、言い返す父の言葉に勢いはなく、最後には、「帰ってくる資格はなかった」と観念し、再び、家を飛び出して行きました。
賢一郎は気持ちが変わったのか、あるいは言い過ぎたと思ったのか、「新! 行ってお父さんを呼び返してこい」と弟に命じ、父の後を追わせますが、見つかりません。兄弟二人は家を飛び出して必死に父の後を追う、という場面でこの戯曲は幕を閉じます。
父への許しと愛を示した息子
後日談は書かれていませんが、その後、父は連れ戻され、一家は平穏な暮らしを取り戻したのかもしれません。ポイントは賢一郎の恨みが最後には解けて、父を許したということにあります。『父帰る』の表題の重さがここにあります。
20年の放蕩三昧の末に、捨てた妻子のもとへ帰る一人の男、帰ってきた父親を簡単に受け入れることのできない長男、この恨みの積もった緊張関係は、並大抵のことでは解けないはずです。しかし、賢一郎は弟の新二郎に再び出て行った父を呼び戻すよう命じたのです。賢一郎の心がこのように急激に変化したのは、言うべきことをすべて言い、吐き出したことにより、積年の恨みがすっと消えてしまったからだと思われます。
菊池寛の小説に『恩讐の彼方に』(1919年)という作品があります。父の敵である市九郎を討つために放浪してきた中川実之助は、ようやく敵を見つけ出します。しかし、市九郎は、昔は悪人であったが、心を入れ替え、了海という僧侶となっていました。耶馬渓(豊前国=大分県)の難所を開削する事業に身を挺し、大慈大悲を実践する彼の姿を見て、実之助は敵を討つことができなくなり、最後は了海和尚にすがりつき、号泣するという場面で話が終わっています。
こういう話の筋を好む菊池寛は、愛と許しというテーマを追求しているように思われます。どんな悪人でもいいところもあるはずであるから、裁くのではなく、許すことや愛することが必要なのではないかと、菊池寛は言いたかったのだと思います。
菊池寛の人間像
菊池寛は、35歳(1923年)のとき、雑誌「文藝春秋」を創刊し、彼の下には多くの文人たちが集まりました。1927年、芥川龍之介が亡くなったときには号泣し、葬儀では弔辞を読む半ばから涙が止まらなかったと言います。情の厚い人だったのでしょう。
奥村包子(かねこ)と1917年に結婚。瑠美子(長女)、英樹(長男)、ナナ子(次女)の三人の子供を儲けています。1947年、「文藝春秋」の方針が戦争に協力的であったとの理由で、菊池寛はGHQ(連合国軍総司令部)から公職追放の指令を受けました。1948年、狭心症に倒れ、亡くなりました。享年59でした。