芸術と家庭・・・文学編(26)local_offer芸術と家庭
長島光央
短命でも守られた血統
白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
石川啄木(いしかわたくぼく・1886~1912)と言えば、胸の痛むような深い悲しみを歌った歌人として知られていますが、彼の代表作「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」を口ずさんだだけで、何だか泣けてくるという人も少なくないでしょう。歌集「一握の砂」の巻頭の歌です。
また、「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」という歌などは、読み上げると切ない気持ちになってしまいます。
「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る」は、言うまでもなく、生活苦にあえいだ啄木自身の体験そのものであり、彼の人生がどのようなものであったかを物語っています。啄木の感受性の強さは、マジックのように自身の苦しみをことごとく詩句で表現し、深い詩情の世界へと昇華させました。
石川啄木は、岩手県出身の歌人、詩人ですが、「啄木」は雅号で、本名は石川一(はじめ)と言います。父・石川一禎(いってい)、母・工藤カツの間に長男として生まれましたが、父は曹洞宗の日照山常光寺の住職であり、僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられています。
啄木は盛岡尋常中学校に在学中、先輩の金田一京助に勧められて文芸誌『明星』を愛読するようになります。中学校を中退した後、『明星』に「啄木」の名で長詩「愁調」を掲載し、注目されるようになりました。そして、19歳の時(1905年)に処女詩集である『あこがれ』を刊行します。
その後、彼は経済的事情から代用教員や新聞記者として勤める傍ら、小説家を志しますがうまくいかず、東京で朝日新聞社に校正係として入社することとなります。そして、同新聞社に勤務していた1910年(24歳)、ようやく初の歌集『一握の砂』を刊行します。『一握の砂』は、三行分かち書き形式で表現され、生活に即した新しい歌風を取り入れた歌集です。これによって啄木は歌人として名声を得ることとなりました。しかし、間もなく彼は結核にむしばまれ、満26歳という若さで人生の幕を閉じ、その魂は天へと旅立ちました。
転々たる漂泊の人生と生活苦
あまりにも短い生涯であった石川啄木ですが、その短い期間に、岩手、東京、北海道を目まぐるしく移住する生活を送りました。生きるための費用を稼ぐため、そうせざるを得なかったのです。生来の虚弱な体質から、仕事内容は力仕事ではなく、代用教員、新聞社、詩歌や小説の創作活動など、頭脳を使う知的労働に限られました。
故郷の岩手に対する思いは強く、良い思い出も悪い思い出も彼の脳裏に焼き付いていました。また、故郷にいるときも故郷を離れても、盛岡尋常中学校の先輩であった金田一京助とは友誼(ゆうぎ)を切らすことなく、多くの助けを受けました。
啄木が歌った「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」は、美しい詩情と故郷への愛が溶け合って、「泣く」という震えるような感情の極致が表現されています。「ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」は、故郷訛りの言葉が聞きたくて、わざわざどこかの駅の雑踏に佇んだということです。啄木の故郷への思いは、哀切感に溢れています。「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」に至っては、ふるさと讃歌の頂点を極めた歌だと言っても過言ではありません。
彼の歌は、岩手の自然と深く結び付いています。岩手山を見て育った幼少時の生活が脳裏に染み込んでいるのでしょう。ただ啄木にとって、歌は「悲しき玩具」(悲しいおもちゃ)であるとまで言っていますから、ふるさとの自然は美しかったが、そこでの思い出は悲しいことが多かったと言いたかったのだろうと思います。
啄木の結婚生活
石川啄木は堀合節子(1886~1913)と恋愛し、1905年に19歳という若さで結婚します。26歳で他界した啄木と、その翌年に後を追うように亡くなった妻節子の間には3人の子が生まれました。長女は京子、長男は真一、次女は房江と言いますが、真一は生後間もなくして亡くなり、房江は啄木が他界した後に生まれました。唯一、長女の京子だけがおぼろげに父の存在を感じて成長しますが、その京子も6歳で父と死別し、さらに7歳で母とも死別しました。京子と房江は、共に母節子の父母に引き取られて成長します。京子は須見正雄(1900~1968)と結婚し、正雄は石川姓を継ぎます。正雄は啄木全集の編集などに力を尽くしました。
啄木夫婦は、共に短い人生を送ったとはいえ、長女夫婦の子、晴子と玲児がその血統筋を引き継ぎました。天は短命の天才詩人に愛を注ぎ、その血統を保持する道を開かれたのかもしれません。