芸術と家庭・・・絵画編(15)local_offer芸術と家庭
岸田泰雅
家族愛の絆を称賛
ヤン・ブリューゲルの家族
「ヤン・ブリューゲルの家族」という家族の肖像画がある。これを描いたのは、ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)という名の画家で、ドイツに生まれた。もともとはアントワープ(アントウェルペン、ベルギー)にいたが、宗教迫害を避け、ドイツに移り住んだ父母、ヤンとマリアの間に生まれた子である。父親の死後、ルーベンス一家はアントワープへ戻ることになる。ルーベンスはカトリックであるが、晩年の彼は、カトリック改革(対抗宗教改革、カトリックで起きた宗教改革)の影響を受けた絵画様式を主導した。
ルーベンスは、彼の工房で働いていたヤン・ブリューゲル(1568~1625)の家族の肖像を描いた。画面に向かって左側にヤン・ブリューゲル、隣に2度目の妻カタリーナが描かれており、カタリーナが肩に手を置いている息子が長男のピーテル、もう一人が娘のエリザベートである。400年前に描かれた作品であるが、写真のような実写性を持っている。
全体的に、非常に精緻に描かれた肖像画であり、4人のそれぞれがくっきりとした表情で描き出されている。ヤン・ブリューゲルのやや憂いを含んだ表情、妻カタリーナのきりっとした顔立ち、息子の何かを食い入るような視線で見つめる顔、母親をじっと見上げる娘の表情が、それぞれの存在感を放ちながら訴えてくるのである。衣装の艶も見事な描き方であり、カタリーナや子供たちの手のリアルな肉感も伝わってくる。ルーベンスの手によって描き上げられた、非常に素晴らしい出来栄えの家族肖像画である。
偉大な活躍を成し遂げたルーベンス
ルーベンスと言えば、16世紀末から17世紀初頭にかけてのバロック期、フランドル(オランダ、ベルギー、フランス北部地方の呼称)の画家として、その活躍がヨーロッパ全体に鳴り響いた偉大な画家である。
彼は、画家としてはもちろんのこと、それ以外の分野でも非凡な才能を世に現した人物として有名である。まず、画家としてだが、そのジャンルが、肖像画、風景画、歴史画、祭壇画など、幅広い領域に広がっていた。彼自身、アントワープで大規模な工房を経営しており、そこに優れた画家たちが集まって、共に働き、共同で描き上げた合作も少なくなかった。工房で生み出された作品は、欧州各国の貴族たちの間で、高い評価を得ていた。
ルーベンスは、ヨーロッパの源流となる知識、すなわち、ギリシア、ローマの古典や聖書の知識などに精通し、学識豊かであったので、優れた人文主義学者の顔も持っていた。さらに、7カ国語を駆使する卓越した言語の才能は、彼を外交官として押し上げた。スペイン王やイングランド王から、ナイト爵位も授与されている。
1600年、23歳の時、ルーベンスはイタリアを訪れ、ベネツィアやフィレンツェ、ローマなどで多くのルネッサンス期の画家たちの作品に触れ、特に、ティツィアーノ、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの作品から大きな影響を受けた。イタリアを離れ、故郷のアントワープに戻ったルーベンスは、1609年、イザベラ・ブラントと結婚した。
外交官としてのルーベンスは、1620年代末、ネーデルランドとスペイン、イングランドの3カ国を頻繁に往復する外交活動に注力したが、その目的は、スペインとネーデルランドの間に平和を確立することであった。1568年から1648年にかけて、スペインとネーデルランドの間には、ネーデルランド諸州がスペインに対して起こした反乱である「80年戦争(オランダ独立戦争)」が起きており、ルーベンスの外交手腕は、まさに、この時に発揮されたものであった。
ルーベンスの結婚と家族
最初の妻イザベラをなくしたのち、1630年、53歳のルーベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと結婚した。イザベラとの間には3人の子供がいて、エレーヌとの間には5人の子供が生まれたため、合わせて8人の子供に恵まれた。
ルーベンスは最初の妻イザベラを「最良の伴侶」と呼んで、心から愛した。長女のクララを描いた肖像画があるが、その温もりが伝わってくるような柔らかなタッチは、そのまま、妻イザベラへの限りない愛の表現でもあった。
イザベラに先立たれたルーベンスの喪失感は大きかった。ルーベンスは亡くなった兄の子供も引き取って育てるほど家族愛の深い人物だった。ルーベンスは自分の家族と同様、ヤン・ブリューゲルの家族に対しても、「どうか、しあわせであれよ」と願う思いに溢れて肖像画を描いたに違いない。ルーベンスは偉大な家族愛の絆を称賛する人物であった。