機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・絵画編(18)

芸術と家庭・・・絵画編(18)local_offer

岸田泰雅

生活のために描いた「肖像画」

風景画なのか肖像画なのか

アンドルーズ夫妻の肖像

トマス・ゲインズバラ(1727~88)の「アンドルーズ夫妻の肖像」は、一応、夫妻がしっかりと描かれているので肖像画であると分かるが、それにしても、夫妻は左の隅に追いやられ、中央から右のスペースは、しっかりと風景画として描かれているため、この作品が肖像画であるのか、風景画であるのか判然としないところがある。少なくともそういった印象を受ける。

左側の画幅にしても、夫妻の真後ろには、立派な大木があり、そのさらに後方には樹々の木立が描かれている。こうなると、風景画が主であって、その風景の中に、アンドルーズ夫妻をはめ込んだ画であると見るのか、それとも、あくまでも夫妻の肖像画が主たるものであり、その肖像画を引き立たせるために風景を添えたのかという判断になるが、肖像と風景の主客が均衡していて、絵画の特徴を決めるジャンルがもう一歩、不明瞭なのである。それでも、肖像画という分類で、これまで取り扱われてきた。

こういう議論が起こる最大の原因は、トマス・ゲインズバラ自身にある。彼は、生活のために(生活費を稼ぐために)肖像画を描き、自分の本当に書きたいものを描くという目的のために風景画を描くとはっきり言明している。このゲインズバラの言葉通りに描いた画が、「アンドルーズ夫妻の肖像画」なのである。彼のこの考え方のお陰で、生活のために描いた肖像画が半分、自分のために描いた「風景画」が半分という構成で、「アンドルーズ夫妻の肖像画」が出来上がったというのが事の真相であった。

イギリス風景画の先駆者

ゲインズバラは、1740年、13歳の時、ロンドンに出て、ユベール・グラヴロに絵を学んだ。17世紀のオランダ風景画の修復に携わり、風景画に興味を抱いた。しかし、生活のためには、肖像画を描くしかないと考え、ロイヤル・アカデミー創立会員に名を連ね、肖像画を約800点描いた。風景画は約200点を残している。

当初から、風景画に惹かれていたため、肖像画の多くが、風景画の特徴を併せ持ち、生活のために肖像画を描くついでに、自分の描きたい風景画も同じ肖像画の中に描かせてもらうというダブルスタンダードの絵画を多く描いた。そういう作品群の中でも、非常に有名になった作品が「アンドルーズ夫妻の肖像画」である。

アンドルーズ夫妻の雰囲気は優雅で高貴な印象を与え、風景と肖像が調和し、非常によくできた作品として評価できる。肖像と風景の二大要素がお互いに主張し、ぶつかり合うことをせず、馴染み合い、違和感のない融合を遂げている。

ゲインズバラは、イギリスの風景画の先駆者として知られ、有名なターナーやコンスタブルなどに大きな影響を与えた。肖像画の方も、ゲインズバラなりの研鑽を重ね、すぐれた作品を創出した。特に、風俗や人物の描き方などにおいて、スペインのムリーリョの影響を強く受けたとの指摘がある。

18世紀の英国社会

英国のみならず、欧州は中世から近世にかけて貴族社会を形成したことが知られている。18世紀の英国はハノーヴァー朝で、ジョージ2世の時代であったが、貴族の制度、すなわち、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の序列を中心に、貴族社会がほぼ固まったと言える時代であった。

王族をはじめ貴族は、狩りが特権であったため、「アンドルーズ夫妻の肖像画」のように、貴族の夫妻が狩猟の休憩を取る場面が肖像画として描かれることが多かった。猟銃を持ち、猟犬を従える夫の姿は、貴族の威信を表し、獲物を追いかける貴族たちの姿は、それがそのまま、戦闘訓練にもつながる意味合いがあった。

トマス・ゲインズバラは、1746年(19歳)、マーガレット・バーと結婚した。マーガレットは公爵の非嫡出子とされる16歳の娘であった。ロンドンでの画業の修業は思わしくなく、一時、田舎のサドベリに引きこもるなど、いろいろあったが、最終的には1774年にロンドンに戻って生活を安定させた。ゲインズバラは妻との間に二人の娘を儲けた。

ゲインズバラの歴史的な評価はけっして低くない。肖像画も大変な力量を示している。そこに、陰で夫を支え続けたマーガレットの存在を見失う愚を犯してはならないだろう。