機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・絵画編(19)

芸術と家庭・・・絵画編(19)local_offer

岸田泰雅

「傑出した輝かしい女性」と夫が墓碑に刻む

イタリアの女流画家

「チェス・ゲーム」(1555年)

イタリアのルネッサンス期の女流画家、ソフォニスバ・アングイッソラ(1532~1625)が描いた「チェス・ゲーム」(1555年)という作品がある。彩色が鮮やかで、描かれた4人の女性たちの表情は明るく、全く暗さがない。

右側の女の子が手を挙げているところを見ると、勝負あったということだろう。もちろん、左の年長の女性が勝利を収めた瞬間に違いない。チェス・ゲームで対戦した二人の女性の間に挟まっている小さな女の子は、「やっぱり、お姉ちゃんが勝ったね」と言っているようだ。


右端からゲームの成り行きを見守っていたのは、この家のメイドである。女4人を画布に描いた「チェス・ゲーム」は、若きソフォニスバの才能が遺憾なく発揮された名作として記憶されることとなった。


ソフォニスバは、ジェノヴァの貴族の家に生まれた。父はアミルカーレ・アングイッソラ、母はやはり貴族の家系から出たビアンカ・ポンツォーネである。父は娘たちに技芸を教え込むことに熱心であったが、娘たちは皆、絵を描く才能を磨いたのである。


ソフォニスバは長女であり、「チェス・ゲーム」に描かれた左側の女性は、三女のルチア、右の妹が四女のエウロパ、一番小さな女の子が五女のミネルヴァである。アングイッソラ家には6人の娘と一人の息子が生まれ、女の子たちの賑やかさが家庭内に広がっていたであろうと思われる。


それにしても、「チェス・ゲーム」に描かれた一人ひとりの人物の表情としぐさは、その場、その時の状況をよく物語っていて、説明の言葉を要しない。これこそが、ソフォニスバの才能であり、彼女は人物の表情の意味を的確に描き出している。

教育環境に恵まれ、教養を培う

ソフォニスバ・アングイッソラは、女流画家として著名であるが、ヨーロッパの絵画史に名を残しているのは、ほとんどが男性であり、女性の名はほとんど見当たらない。現代に至ってようやく、ちらほらと女性画家の名が見られるようになったのであり、ルネッサンス時代には極めて珍しいことであった。

ソフォニスバが生きた時代は、ダヴィンチもラファエルもすでに亡くなっており、ミケランジェロが活躍していたときであった。当時の画家の世界は、ほとんどが世襲であり、有名な画家の子弟が活躍する時代であった。


アングイッソラ家では、父親が娘たちの教育に高い意識を持っており、さまざまな習い事、例えば、音楽、ラテン語、絵画などを習わせた。そのおかげで、娘たちは教養溢れる女性として成長していったのである。


父親のアミルカーレは、娘たちに画家の才能があると分かると、ベルナルディーノ・カンピのような有名画家のところに娘たちを送って、修行をさせた。ソフォニスバは、1554年(22歳)、ローマ滞在中にミケランジェロに会い、助手の仕事を得るが、その才能と仕事ぶりを大いに評価された。ソフォニスバは、偉大な師匠から個人的に教わる恩恵に浴し、ますます才能に磨きをかけていくのである。

ソフォニスバの結婚と人生

ソフォニスバの名声は世に知られるところとなり、1558年、スペインの宮廷に招かれた。フェリペ2世の王宮で過ごすこと18年、王妃に女官として仕えながら、王妃の肖像画などを描いた。彼女の才能に感嘆した王と王妃から絶大な寵愛を受けたのである。

ソフォニスバは独身であったので、フェリペ2世は彼女のことを心配し、結婚を薦めた。見合いをして、1571年頃、パテルノ(イタリアのポテンツァ圏にある自治体)の公子でシチリア総督のフランシスコ・デ・モンカーダと結婚した。結婚式は華やかな祝賀であった。彼女はスペイン王から持参金を持たされた。


ソフォニスバと夫は、1578年頃、スペインを後にしてパレルモへ行き、そこで夫は1579年に亡くなっている。フランシスコとの結婚生活は8年間の短いものであった。そして1580年、彼女が48歳のとき、若いオラツイオ・ロメッリーノと出会い、ピサで結婚する。


オラツイオは、妻の芸術を理解し、援助した。1625年、ソフォニスバは93歳で死ぬが、夫のオラツイオは墓碑に「わが妻ソフォニスバ、あなたはこの世で、肖像画を描く傑出した輝かしい女性として記録された」と刻み、彼女の功績を称えた。オラツイオはソフォニスバを愛し、彼女は老いてなお画業に励み、幸せな人生を閉じたのである。