芸術と家庭・・・音楽編(11)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
充実した人生から生まれた名曲
バッハに始まりバッハに至る
聖書を見ますと、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」(ローマ人への手紙1:17)というパウロの言葉を目にします。クラシック音楽を聴くとき、バッハの音楽に心引かれるものを感じた者は、その1000曲を超える音楽の泉に心酔してしまうことがあります。音楽の追求と研究において、バッハは誰よりも真剣に取り組んだ人です。そういうバッハの並々ならない努力が聴く者に自然と伝わってくるのでしょう。パウロ的な言い方をすれば、「音楽を愛する者は、バッハの中に神の啓示を感じ取り、バッハに始まり、バッハに至る」体験をすることができると言ってもよいでしょう。
信仰深いバッハは信仰の音楽をたくさん作りました。そのほとんどが教会音楽と言ってよい作品です。信仰の深かったバッハは、私生活においても、浮気のない堅実な夫婦生活を送りました。貞節な夫婦生活のように、バッハの音楽もまた、神を愛する純粋な魂の世界を表現しています。「カンタータ82番」などにその特徴が示されています。そして何と言っても「マタイ受難曲」の感動は、キリスト教信仰の精髄を表すものであると言えます。プロテスタントの信仰を持っていたバッハですが、カトリックの方から作曲の依頼が来た時でも、喜んで応じたと言いますから、本当の意味で、旧教、新教の壁など、バッハにはなかったのかもしれません。
夫婦愛の真実さにバッハの誠実な人柄
結婚したバッハは妻との間にたくさんの子供を儲けました。バッハは2回結婚していますが、最初の結婚相手は、マリア・バルバラ・バッハです。2度目の結婚は、アンナ・マグダレーナ・ヴィルケンとでした。
最初の妻マリアとバッハの関係は、祖父同士が兄弟で、父親がいとこ同士という間柄ですから、又従兄妹同士で結婚したわけです。マリアとの結婚生活は13年、その間に7人の子供が生まれました。うち3人を幼いうちに亡くしています。挙句に、35歳の若さで妻のマリアも急逝してしまいます。マリアとの結婚生活時代(1707~1720)に、有名な「ブランデンブルク協奏曲」など、多くの作品が作曲されています。
前妻と死に別れた翌年、バッハは再婚します。仕事は忙しくなる一方で、子供たちの世話のこともありましたから、伴侶と死別してすぐに再婚するのも仕方のないことでした。相手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケンは、ケーテン宮廷楽団の演奏家の娘であり、彼女自身もソプラノ歌手でした。アンナとの間には13人の子供が生まれました。しかし、当時の医療未発達な時代のこと、13人のうち7人が早くに亡くなりました。年の差16歳の結婚でしたが、2人はお互いを深く愛し合い、支え合ったようです。「ミサ曲ロ短調」「音楽の捧げもの」「平均律クラヴィーア曲集」その他の多くの傑作群が、アンナとの結婚生活の時代に作曲されています。バッハは1750年、65歳で亡くなりますが、アンナはその後10年を生きて、夫の後を追いました。
信仰が作曲活動と結婚生活を支える
バッハという作曲家と向き合うとき、宗教(キリスト教信仰)と音楽というテーマについて深く考えさせられます。神を信ずる信仰が音楽の啓示となってバッハに降り注ぎ、彼はそうやって多くの曲を作ったのであろうと思われるのです。もちろん、技法的にも大いに研鑽し、研究したバッハではありますが、それぞれの楽器が奏でる音の性質を、最も美的に、最大限に引き出すという霊的な感性を持ち合わせていたことは間違いないでしょう。
結婚生活においては、素晴らしい女性に恵まれたバッハであったと思わざるを得ません。何しろ、大勢の子供を生んでくれる妻を心から喜んだバッハであったことでしょう。いろいろと生活上のやりくりや大変さがあったとしても、大勢の子供たちに囲まれた家庭生活は夫婦にとって生きがいであり、充実感のある楽しい人生です。
バッハとその音楽は、彼の死後、埋もれた作曲家として、ヨーロッパではほとんど忘れ去られていた状態でした。バッハを世に出した最大の功労者はメンデルスゾーンです。バッハの死後、およそ80年目にして、メンデルスゾーンは「マタイ受難曲」の素晴らしさを世に示し、ここにバッハは不朽の作曲家として自身の復活を、イエスのように遂げたのです。