芸術と家庭・・・音楽編(21)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
バレエ音楽の新時代を開く
「火の鳥」のストラヴィンスキー
イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)が書いたバレエ音楽「火の鳥」(1910年初演、演奏時間約48分)は、その台本に「イワン王子と火の鳥と灰色狼」、「ひとりでに鳴るグースリ」という二つのロシア民話が用いられています。「火の鳥」は二つの話が巧みに組み合わされた、ストラヴィンスキー28歳のときの作品です。
手塚治虫氏は「ぼくはある劇場で、ストラヴィンスキーの有名なバレエ『火の鳥』を観ました。バレエそのものももちろんでしたが、なかでプリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました」と告白しています。彼はバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の「火の鳥」から漫画「火の鳥」の着想を得たのです。
「火の鳥」の成功を機に、「ペトルーシュカ」(1911年)、「春の祭典」(1914年)というバレエ音楽を立て続けに世に送り出し、ストラヴィンスキーの名声は不動のものとなります。いずれも西洋音楽にはないロシアの魂(原始主義)の響きのようなものがみなぎっており、バレエ音楽の新時代を開いたと言ってもよいでしょう。「春の祭典」が上演されたとき、パリのバレエ・ファンたちの間で賛否両論が渦巻き、大混乱を起こしたことは語り草になっています。
変幻自在の音楽世界を創出
ストラヴィンスキーは、ロシア帝国のペテルブルクの近郊(現ロモノソフ)に生まれました。1902年(20歳)、ペテルブルク大学法学部に入学しますが、学業に真剣に取り組んだ形跡はありません。彼の関心は別のところにあり、リムスキー=コルサコフ(1844~1908)を師として、音楽の道へと進みます。1914年(32歳)、第一次世界大戦の勃発を機にスイスに亡命、そこに居を構えました。1934年(52歳)には、フランス国籍を取得。ストラヴィンスキーの生涯は、フランスとの強い親和性を示しています。
1939年(57歳)、第二次世界大戦の戦火がヨーロッパを包み始めたころ、米国のハーバード大学の招きで渡米、「音楽の詩学」と題する6回の講義を行います。そしてそのまま、米国に留まり、ハリウッドに住みました。1945年(63歳)には、アメリカ合衆国の市民権を取得します。このように、彼はロシア、スイス、フランス、アメリカと、各国を転々とする人生を送りますが、彼の音楽もまた、多様な変化を示し、変幻自在の音楽世界を創出するのです。進歩主義的で、新しいものを開拓する創造性に溢れていたストラヴィンスキーは、多くのジャンルを逍遥します。バレエ音楽、オペラ、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲、歌曲、編曲作品などを、原始主義、新古典主義、セリー主義(12音技法)などによって、色彩的にオーケストレーションする巨匠であり、多産な作曲家であったとも言えるでしょう。
初期の原始主義の三つのバレエ音楽「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」は、彼の代表作ですが、バレエ音楽も、1920年の「プルチネルラ」を聴くと、大きく変化し、新古典主義と言われる傾向に進んでいることが分かります。1927年には、新古典主義のオペラ「エディプス王」を、友人のジャン・コクトーの協力を得て完成させ、世に送り出しました。
新古典主義への傾倒の中で、ストラヴィンスキーは詩篇交響曲(1930年)を作曲します。詩篇という言葉が冠せられている通り、非常に宗教的な曲です。交響曲というより、詩篇の歌唱を交響化したアンサンブルと言った方がよいでしょう。
ストラヴィンスキーの結婚と家庭
ストラヴィンスキーの初婚相手は、1歳年上のいとこ、カテリン・ノセンコでした。幼いころから姉弟同然で育ちました。ストラヴィンスキーの大学卒業の前年に婚約し、翌年に結婚しました。しかし、カテリンは病弱で、ストラヴィンスキーは1939年に妻と娘を失い(共に結核)、さらに母親を亡くした後、アメリカに渡り、1940年にヴェラ・ド・ボッスと再婚しました。ヴェラは画家で、ストラヴィンスキーと再婚する2カ月前に夫と離婚しています。二人は鳥や花、ペットや絵画の趣味が合い、互いに実に几帳面だった点など、性格も一致しており、幸せな結婚生活を送りました。晩年の30年間をヴェラと共に過ごしたストラヴィンスキーは、1971年、88歳で往生し、その11年後の1982年、93歳でヴェラもあの世に旅立ちました。