機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」日本人のこころ〈98〉

日本人のこころ〈98〉local_offer

ジャーナリスト 高嶋 久

正岡子規 (上)

現代日本語を作った一人

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」で知られる明治の俳人・正岡子規について、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、「俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった」とし、「余談ながら明治期に入っての文章日本語は、日本そのものの国家と社会が一変しただけでなく、外来思想の導入にともなって甚だしく混乱した。その混乱が明治30年代に入っていくらかの型に整備されてゆくについては規範となるべき天才的な文章を必要とした。漱石も子規もその規範となったひとびとだが、かれらは表現力のある文章語を創るためにほとんど独創的な(江戸期に類例をもとめにくいという意味で)作業をした」と解説しています。

「俳句王国」と呼ばれる愛媛県松山市には、市立子規記念博物館と坂の上の雲ミュージアムがあります。同市が正岡子規や高浜虚子、河東碧梧桐、中村草田男ら近代日本の俳人を多数輩出したのは、一に子規の影響でした。ちなみに、私の自治会には「降る雪や明治は遠くなりにけり」の草田男の孫弟子がいて、そのまた孫弟子の句会に私も参加しています。

子規は1867年、今の松山市花園町で伊予松山藩の藩士の家に長男として生まれました。母の八重は藩儒大原観山の長女です。幼くして父が没した子規は家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠の後見を受けます。観山の私塾で漢書の素読を習い、少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いています。また当時の自由民権運動の影響を受け、演説や政談にも熱心でした。

再放送されたNHKのテレビドラマ「坂の上の雲」の最終話で、主人公の秋山真之が、余りにも多くの人の死を見たので、海軍を辞めて僧侶になり、日本兵、ロシア兵の別なく弔いたいと語るシーンが印象的でした。松山市には、日露戦争で捕虜になり、亡くなったロシア兵の墓地があります。

当時、日本で初めての捕虜収容所が松山に設けられ、投降した約6000人のロシア兵が収容されていました。当時の松山の人口3万人の20%にもなります。国際法を遵守する明治政府の方針で、彼らは人道的に扱われ、外出は自由で、道後温泉の入浴や観劇も楽しめ、市民との交流もありました。そのうわさはロシア兵にも知られ、彼らは投降する際、「マツヤマ」と叫んだそうです。そんな捕虜のうち、病気や戦傷で亡くなった98人が眠るのが「ロシア兵墓地」で、何度か移転し、現在は松山大学御幸キャンパスに隣接した高台にあります。うち4人はウクライナ人で、日本式の墓石は祖国がある北を向いています。

司馬遼太郎が秋山真之を知ったのは父親の蔵書にあった子規を通してで、『坂の上の雲』では、同じ文学の志を持ちながら、軍人になるため下宿に置手紙をして去っていく真之に、「目に痛いほどのおもいをもって明治の象徴的瞬間を感じた」と書いています。その心的情景を描いたのが同書で、日本史に例外的な明治の時代を、松山に生まれた3人の若者の物語として書いたのです。生前、司馬が同書のテレビドラマ化を許可しなかったのは、日露戦争にのみ焦点が当たり、戦争礼賛の書とされるのを嫌ったからです。しかし、かつてない長編のスペシャルドラマの企画でNHKが説得し、遺族は、ドラマを通して少しでも若い人が本を読んでくれるようになればとの思いで同意したとのことです。

「べらぼう」の時代から明治へ

近世、日本語が大きく変化したのは大河ドラマ「べらぼう」の江戸時代中期です。武士や町人が身分を超え、狂歌で言葉遊びをする中、日本語が進化しました。その一つが俳句で、その後、形式化した俳句を子規は革新したのです。つまり、江戸、明治の二つの時代を経て、今の日本語は形成されたと言えます。

日本の詩歌の特徴は、古代の歌会から中世の連歌、近世・近代の句会まで、身分や年齢、性別を超えて参加者が平等の立場で選句し、批評し合うことです。ですから、当然、その仲間には連帯感が生まれてきます。中世の連歌が武士に愛好されたのは、連歌を通して互いの心の結束を強めることです。江戸時代の狂歌も、教養のある武士だけでなく町人や僧に遊女まで交じり、対等に意見を述べ合っていました。そうした場を通して日本人の語り言葉が発達し、やがて口語体の戯作が作られ、近代小説につながっていくのです。

明治の日本語の特徴は、西洋思想が圧倒的な力で押し寄せたことで、日本人はそれを自国の言語で理解するため、漢字を使って多くの翻訳語を生み出します。哲学や意志、常識、環境なども当時作られた用語で、その多くが今でも日本のみならず中国や韓国でも使われています。言葉には概念が付いているので、新しい言葉を理解することで日本人は急速に西洋世界を吸収し、それに対応する近代国家としての日本を形成することができたのです。

日露戦争の奇跡的な勝利によって日本はロシアの植民地になることを免れましたが、子規らによる文章日本語の革新の恩恵は、余り知られていません。ウクライナ侵攻以来、ロシアの脅威が高まる今、国防を考えるとともに、その歴史的意味も再認識したいものです。