機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」日本人のこころ〈101〉

日本人のこころ〈101〉local_offer

ジャーナリスト 高嶋 久

夏目漱石(上) 『吾輩は猫である』

子規と漱石の友情

夏目漱石

日本の近代文学史上、特筆されるべき友情は、先月まで3回にわたり紹介した正岡子規と夏目漱石のそれでしょう。二人とも江戸時代までの漢学の教養の中で育ち、西洋文化の流入を受け、子規は俳人として、漱石は小説家として、新しい日本語、日本文学の創造に立ち向かいました。

二人が出会ったのは明治22年1月頃、第一高等中学校(今の東京大学教養学部)の同級生としてです。古典的教養を有し、文学に興味が深かったことから、親しくなったのでしょう。同年5月、子規は喀血(かっけつ)し、「子規」と号するようになります。子規とは時鳥(ほととぎす)のことで、血を吐くように鳴くことから、結核の代名詞のように使われていたのです。その後、子規は東京帝国大学文科大学に進みますが、試験に落第して退学し、日本新聞社に入社します。

明治28年、日清戦争の従軍記者になった子規は、帰国の船上で喀血、危篤状態になり神戸の病院に入院しました。その子規への見舞状で漱石は、「小生近頃俳門に入らんと存候閑暇の節は御高示を仰ぎ度候」と弟子入りを申し出ています。小森陽一東大名誉教授は「病と闘っている子規にとって、何が心の支えになるかを理解している漱石ならではの配慮と励ましがある」(『子規と漱石』集英社新書)と言っています。二人の友情が、文明開化に刺激された言文一致と写生の近代文学を生んでいくのです。

万葉集から和歌・連歌を経て江戸時代の狂歌・俳諧へと発展した日本の短詩は、子規によって文学に高められました。背景には、貴族や武将らの閉鎖的な空間での言葉のやりとりが庶民に開放された江戸の高揚と、明治になって流入した西洋文学の影響があります。近代日本人が、自分らしい言語表現を模索したのが明治20年代で、子規は俳句の革新を目指していました。

子規の周辺には同じ思いの若者が集い、漱石もその一人でした。子規が病に倒れた時、松山中学の英語教師に就任していたのも幸運で、子規が同居した漱石の下宿は若者の俳句塾になり、やがて漱石は子規の弟子の高浜虚子の勧めで、雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を連載するようになります。

漱石が松山市に赴任していた時の下宿先が愚陀仏庵(ぐだぶつあん)で、名称は漱石の俳号・愚陀仏に由来します。子規はここに52日間居候し、俳句結社「松風会」の句会を開き、これが漱石文学に影響を与えたのです。当時の建物は太平洋戦争の戦災で焼失し、昭和57年に木造二階建ての建物として復元されましたが、平成22年7月に倒壊しました。

「私の個人主義」

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」で始まる長編小説『吾輩は猫である』は、中学の英語教師珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の家に飼われる猫が、主人や家族をはじめ同家に集まる高等遊民たちの言動を観察し、人間の愚劣さや滑稽さや醜悪さを批判し、嘲笑する内容で、人気を集めました。

NHKで放送されたドラマ「坂の上の雲」では、日露戦争で高揚された大和魂をちゃかす漱石を批判した子規の妹の律が、漱石が取り出した『猫』の原稿を手に取り、「これは好きよ」と笑顔を見せるシーンが印象的でした。

漱石は当初、読み切りの小説として書き始めたのですが、人気が出たので次々と書き続けるようになります。ネコ目線での人間批評、文明批判で、一種のパロディーですが、会話文に近い展開の早さと痛快さで、大衆にも読まれたのです。私も中学校の教科書で初めて触れて、面白いので高校に入ってから漱石の作品を読み進めました。

すると、『坊っちゃん』までは軽く読めたのですが、『三四郎』『それから』『門』の三部作になるとかなり重くなりました。明治時代の「近代的自我の目覚めと苦悩」を描いたものなので、それもそうでしょう。『行人』から『こゝろ』『道草』『明暗』と進み、「則天去私」の心境に達するようになります。「天に則り私を去る」と読み、自然に従って私心を去れという意味で、禅の境地に近いように思えます。

大正3年、漱石は学習院で若者を対象に「私の個人主義」と題し講演しています。「国家主義」が宣揚された時代に、漱石は「個人主義」の立場を主張したのです。今の世は「他人本位」に生きる人が多いですが、漱石は「自己本位」に生きてきたことを語り、若い人たちにも自己本位に生きる道を勧めたのです。

漱石の言う自己本位とは、自らに依(よ)り、自分の頭で主体的に考え、自らの道を進むことです。そうではなく、他人の言葉や思想に従うのが「他人本位」で、自分ではなく他人を生きることになります。自分を生きてこそ、他人も自分を生きることに寛容になれるのです。その意味で、当たり前のことですが、漱石の個人主義は利己主義ではありません。

その後の敗戦と戦後民主主義の時代を経た今の私たちは、果たして漱石の言う個人主義を生きているでしょうか。漱石の作品を再読しながら、その課題を考えてみたいと思います。