機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・文学編(34)

芸術と家庭・・・文学編(34)local_offer

長島光央

八雲の作品は夫婦愛の結晶

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

ラフカディオ・ハーン(1850~1904)は、ギリシャのレフカダ島で、アイルランド人の父チャールズ・ハーンとギリシャ人の母ローザ・カシマチの次男として生まれました。

ハーンの幼少期は不遇でした。2歳で父の実家があるアイルランドのダブリンに移りましたが、4歳の時に父は軍医としてクリミア戦争に従軍、母も第3子の妊娠を機にギリシャの実家に帰ってしまい、父方の大叔母で資産家のサラ・ブレナンに引き取られます。その後、両親が離婚したため、母とはそれきり会うことはありませんでした。

サラは敬虔(けいけん)なカトリック信徒で、13歳になったハーンをカトリック系で全寮制の学校アショウ・セント・カスバート・カレッジに入学させます。しかし、彼は学校での厳格な宗教教育に反発を覚え、キリスト教を嫌うようになりました。その反動からケルト神話や民間伝承などに関心を向けるようになったといいます。さらに16歳の時、友人と遊んでいる最中の事故で左目を失明。サラが投資に失敗して破産すると経済的にも困窮し、学校も退学になります。その後、ハーンはサラの元を去り、19歳でアメリカに渡りました。

日本の土を踏み、小泉八雲として帰化

ハーンはアメリカのシンシナティにほぼ無一文で到着し、印刷工や新聞記者として働きます。やがてジャーナリストとして頭角を現し、多くの著作を発表するようになりました。タイムズ・デモクラット社の文芸部長を務めていたとき、彼の本の熱心な読者であったエリザベス・ビスランドが部下として入社します。美しく聡明な彼女に惹かれるハーンでしたが、エリザベスは記者としての尊敬心のほうが大きかったようです。そのエリザベスが関心を示していたのが日本でした。また、1884年12月、ニューオーリンズで万国博覧会が開幕すると、ハーンは日本館の展示品に興味を引かれます。そして、政府から派遣されていた服部一三との交流をきっかけに日本への関心が高まっていったのです。

さまざまな出会いを通して1890年、ハーンは日本に向けて出港、4月4日、横浜港に着きます。最初は、ハーパー社の通信員という立場で短期滞在の予定でしたが、契約に不満が募りこれを破棄。服部一三の援助を受け、7月19日、島根県尋常中学校・師範学校の英語教師の職を得ました。

松江での生活の中で、彼の身の回りの世話をするために紹介されたのが小泉セツ(節子)でした。つつましく誠実な性格のセツは、心を支える存在となり、二人は1891年に結婚します。異国の地で孤独を感じていたハーンにとって、セツとの出会いは日本という国を深く理解していく大きな転機となりました。

その後、東京帝国大学で教えていたバジル・ホール・チェンバレンの紹介で熊本の第五高等中学校へ転任。1893年4月、セツの懐妊を知らされたハーンは、次第に日本への帰化を考え始めました。1894年に熊本を離れて記者として神戸に転居すると、1896年2月、45歳の時に日本への帰化が認められ、「小泉八雲」と改名しました。「小泉」は妻の姓で、「八雲」は『古事記』にあるスサノオノミコトの歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに……」から取られたものと言われています。教師として赴任し、セツと出会ったのが松江(出雲地方)だったことから、この地への深い愛情が込められた名前と言えるでしょう。

この年、ハーンは上京し、53歳まで東京帝国大学の英文学科の英語講師を務めます。この間、多くの日本に関する著書を出版しました。1904年、54歳の時に早稲田大学で教えましたが、9月26日、心臓発作により息を引き取ります。葬儀は仏式で行われ、雑司ヶ谷霊園に葬られました。

妻・小泉セツとの結婚生活

小泉八雲と妻・セツ

妻の小泉セツ(節子)は、1868年2月4日、出雲松江藩士の次女として生まれました。セツは夫が日本語を理解するのを助けるとともに、日本の民話や伝説、風習を語り聞かせることで、日本人の心や精神文化への理解を深めさせ、彼がそれを作品として世界に伝えるきっかけを与えました。二人の間には三男一女が生まれ、ハーンの死後、セツは夫との思い出をつづった『思い出の記』を著しています。

ハーンは、日本語の読み書きがほとんどできず、話しも片言だったといいます。家族はその独特な日本語を「ヘルンさん言葉」と名付けていました。それを完璧に理解して通訳できたのはセツだけだったといいます。『怪談』をはじめ、ハーンが記した多くの物語の素材は、セツの口伝によるものでした。ハーンは本の内容であってもそれを読ませるのではなく、セツの口から聞くことを望んだそうです。妻の支えがなければ、作家・小泉八雲の存在はなかったと見てよいでしょう。

完璧な日本語を話せなくても、「ヘルンさん言葉」は二人だけの特別な言語でした。不完全な言葉の中に、完全な愛と信頼があった――それが二人の関係の本質だったのではないでしょうか。

【参考資料】『セツと八雲』小泉凡(聞き手=木元健二)、朝日新聞出版  『小泉八雲:漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』工藤美代子著、毎日新聞出版