機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」世界史の中の結婚と家庭の物語(4)

世界史の中の結婚と家庭の物語(4)local_offer

藤森和也

神が理想を託した二人

家庭の原型:人類歴史の出発点

人類の始祖と言われるアダムとエバ。その物語は、旧約聖書の「創世記」の冒頭に記されています。神が天地を創造されるとき、最後に人間をつくられました。聖書にはこのように書かれています。

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1・26-28)

この聖句に見られる神の人間創造のポイントは、「人間は神のかたちに似せてつくられたこと」「神のかたちとは男と女のかたちであること」「神は人間に『生めよ(生育せよ)、ふえよ(繁殖せよ)、地を従わせよ(万物世界を主管せよ)』という祝福を授けたこと」です。

天地創造の最終段階で、神は自身のかたちに似せて土から人をつくり、その鼻に命の息を吹き込みました。生を受けた最初の人間は「アダム(Adam)」と呼ばれます。その後、神は「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と言い、アダムを深く眠らせ、そのあばら骨を1本引き抜いて、女性を創造しました。人類最初の女性は、アダムによって「エバ(Eve)」と名付けられました。

アダムは、ヘブライ語で「土」を意味する「アダマ」が由来とされています。一方、エバはヘブライ語で「ハヴァ」と言い、「生きる者」または「生命」という意味を持ちます。このようにアダムとエバ、すなわち人類が誕生しました。

家庭の理想原型が崩れる!

人類を創造した神は、アダムとエバをエデンの園に住まわせます。園の中央には「生命の木」と「善悪を知る木」が生えていました。神は二人に、「どの木からも好きな実を取って食べてよいが、善悪を知る木の実は取って食べないように。食べると死んでしまうであろう」と戒めを与えました。

しかし、狡猾で知恵のあるヘビがエバに近づき、「神は本当にどの木からも実を取って食べてはいけないと言ったのですか」と惑わせます。エバは、「善悪を知る木の実を取って食べると死んでしまう」という神の戒めがあることを伝えました。それに対して、ヘビは、「食べても決して死なない。善悪を知る木の実を食べると神のように善悪が分かるようになる」と偽りの言葉を語ります。

それを聞いたエバが善悪の木の実を見ると、とてもおいしそうで、食べれば賢くなれるように感じました。そして、ついにその実に手を伸ばし、禁断の果実を口にしてしまいます。さらにエバは、アダムにも食べるように勧め、彼もまた食べてしまいました。

その瞬間、二人は自分たちが裸でいることに気づき、イチジクの葉で腰を覆います。神は、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたことを知り、彼らを問い詰めます。すると、アダムは「エバが勧めるので食べました」と答え、エバは「ヘビが勧めるので食べました」と答えたのでした。

この話の本質を理解するには、善悪を知る木の実が何であるかを知らなければなりません。すべての生命は雄と雌、男女の愛の結実であるように、木の「実」は「愛」を表していると言えます。この場合、「木」は「人間」の意味になり、「生命の木」はアダム、「善悪を知る木」はエバの象徴と考えられるのです。ゆえに、木の実を食べたという表現は、エバの貞操、純潔を奪ったことを示唆しています。奪ったのはヘビですが、エバの誘いによりアダムも純潔を失いました。

家庭の理想を探し求めた人類の歴史

結局のところ、この物語は、アダムとエバが一人前になる(一人の男、一人の女としての成長基準、完成基準への到達)前、すなわち、成長期間の過程で純潔を失う事件が起きたということです。そのような悲劇がヘビの誘惑によってもたらされました。

本来、真の愛を育んで完成したアダムとエバが結婚することで、神の似姿となるはずでした。ところが、二人は未熟な愛のまま、不倫の愛の関係を結んでしまいました。言い換えれば、神の願った愛の理想が実現できなかったということです。

この物語が真実であるならば、アダムとエバの子孫である人類が抱える根本的な問題は、「愛の病気」といえるでしょう。ピュアウォーター(美しい清らかな愛)を飲んで精神も肉体も健康な生き方ができれば申し分ないのですが、泥水(汚れた不義の愛、ゆがんだ利己的な愛)を飲んで心身が病気に侵され、断末魔の叫びを上げて生きる人類の姿となってしまいました。真実の愛を目指して生きることを宣言しなければならない歴史的な時代を迎えているのかもしれません。何といっても、真の愛に生きること以上に貴いことはありません。

【参考資料】『聖書』日本聖書協会、『原理講論』光言社、『新聖書辞典[新装版]』いのちのことば社