機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」世界史の中の結婚と家庭の物語(8)

世界史の中の結婚と家庭の物語(8)local_offer

藤森和也

信仰で結ばれた母子の強い絆

 

*キリスト教迫害を終わらせた皇帝

古代ローマ帝国の歴史で、宗教上の大きな転換が起きたのは、コンスタンティヌス1世(270年頃〜337年)の時代でした。国家の宗教政策が根本から見直されるという、大きな変化が生じたのです。

ローマ帝国ではもともと、ソール(またはソル)と呼ばれる太陽神が神話の重要な位置を占めており、人々は崇拝の念を抱いていました。また、アポローンやミトラスなど、他の太陽神的存在と習合し、帝政期には主神に近い存在とされていたのです。こうした土壌を持つローマ社会に、新たに持ち込まれたのがキリスト教でした。

キリスト教は、歴代皇帝による幾多の迫害を受けながらも生き延び、ついにコンスタンティヌス1世(在位、西方副帝306〜312年、西方正帝312〜324年、ローマ皇帝324〜337年)の統治を迎えることになります。彼は、後世のキリスト教世界で最も偉大なローマ皇帝とされ、神と特別な関係を結び、「地上におけるキリストの唯一の代理者」として称えられてきました。

3世紀末、ローマ帝国のディオクレティアヌス帝(在位284〜305年)は、帝国の安定を図るために分割統治策を実施します。国を東西に分け、それぞれに正帝と副帝を置きました。これが「四分統治制(テトラルキア)」です。286年、ディオクレティアヌス帝は自らを東の正帝とし、ニコメディア(現在のトルコ・イズミット)を都にしました。そして、マクシミアヌスを西の正帝に置いてミラノを都とし、西部を治めさせます。さらに293年には、副帝として東にガレリウス、西にコンスタンティウス(コンスタンティヌス1世の父)を任命しました。

305年、ディオクレティアヌス帝が退位すると、西の正帝マクシミアヌスも退位させられ、副帝が正帝に昇格します。新たに西の正帝となったコンスタンティウスは、息子のコンスタンティヌスとブリテン島に遠征をしていましたが、306年に急死。同行していた軍隊が当時30代だったコンスタンティヌスを皇帝として宣言します。これを契機に、四帝の間で激しい内戦が起き、最終的に勝利を収めたのがコンスタンティヌスでした。彼は分治体制の混乱に終止符を打ち、ローマ帝国を再び一人の皇帝のもとに統合します。こうして四分統治は終わりを告げました。

コンスタンティヌスはその権威を背景に、313年、いわゆる「ミラノ勅令」を公布し、キリスト教を含むすべての宗教に信仰の自由を認めます。これにより、長く続いたキリスト教迫害の歴史は終焉を迎え、ローマ帝国はキリスト教信仰を中心とする新たな時代へと歩み始めたのです。

 

*神の祝福を受けたコンスタンティヌス

コンスタンティヌス1世が軍事的才能に長けていたことは、多くの研究者たちが異口同音に述べるところです。一方で、彼がキリスト教に好意的であった理由や、その改宗の動機ははっきりと分かっていません。

では、コンスタンティヌス1世とキリスト教とを結びつける要因はどこにあったのでしょうか。英国の歴史学者アーノルド・H・M・ジョーンズは、彼を「人間の善良さを追求した人物である」と評し、それはとりわけ、権力者が陥りがちな性的放蕩を避けたことによって示されていると述べています。

イエスの教えは、男女の結びつきにおける節度や責任を重んじ、性のあり方に高い倫理性を求めました。こうした価値観に照らし合わせれば、コンスタンティヌスは神の祝福を受けるにふさわしい人格的美徳の一つを備えていたと見てよいでしょう。

 

*息子を陰から支えた母

彼の父コンスタンティウス・クロルスは、西側の正帝マクシミアヌスを補佐する副帝に任命され、その義理の娘テオドラと結婚し、二人の間には6人の子が生まれました。一方、それ以前に小アジアのニコメディア出身とされる先妻ヘレナとの間にもうけた息子が、後のコンスタンティヌス1世です。ヘレナは身分の高い女性ではありませんでしたが、この母子の間には強い愛情の結びつきがあったと伝えられています。

後年、ヘレナはキリスト教徒となり、息子である皇帝コンスタンティヌスを精神的に支える存在となりました。二人は、信仰を通じて互いに尊敬と励ましを与え合いながら人生を歩んでいったと考えられます。カトリック教会では彼女を「聖ヘレナ」と呼び、息子を陰から支えた女性として尊敬しています。

 

【参考図書】『コンスタンティヌス大帝の時代』:ヤーコプ・ブルクハルト著、 新井 靖一訳、筑摩書房、『ディオクレティアヌスと四帝統治』:ベルトラン・ランソン著、大清水 裕訳、文庫クセジュ

コンスタンティヌス1世と司教たち(325年、ニケ―ア公会議)