日本人のこころ〈102〉local_offer日本人のこころ
夏目漱石(中) 『三四郎』『それから』『門』
前期三部作
『三四郎』『それから』『門』は漱石の前期三部作と呼ばれる小説です。私が初めて読んだのは高校生の時ですが、77歳の今再読してみても新鮮で、新たな気づきがあるのは『吾輩は猫である』と同じです。
『三四郎』は、東大に入学するため熊本から上京してきた三四郎の物語です。時代は日露戦争の終戦直後で、欧米列強の植民地になるのを防ぐため近代化を急いだ日本が、世界最強と言われたロシア軍に辛くも勝利し、列強の仲間入りを果たしました。しかし、賠償金は得られず、多大な戦費のために財政が疲弊し、国民の多くが戦場で家族を失い、深い喪失感に襲われます。そんな時代に、自我に目覚めた個人がどのように成長していくのかが、恋愛を軸に丁寧な心理描写で描かれています。
純朴で女性との付き合い方も知らない三四郎ですが、魅力的な女性・美穪子(みねこ)と出会い、惹かれるようになります。美穪子も三四郎を気にかける様子なのですが、最終的には別の男性と結ばれることになり、三四郎は失恋してしまいます。そんな三四郎に美穪子が投げかけた言葉「ストレイ・シープ(迷子)」は作品のテーマでもあります。
人は人との関係で成長していくもので、異性への愛はその重要な要素です。ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムは『愛するということ』(鈴木晶訳、紀伊國屋書店)で「愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである」と書いています。つまり、その人に責任を感じるようになることで、それが自分を成長させるのです。これはだれしも思春期に経験することではないでしょうか。「気にかける」とは「大切に思う」ことで、戦国時代に来日したカトリックの宣教師は、「神の愛」の意味を日本語で正確に伝えるため、「神のお大切」と言っていたそうです
自分の気持ちは自分でもよく分からないものですが、人との関係を通して分かることがあります。好きな人ができ、その人との関係を深めようとすると、そうする自分の心の中はどうなのか、内省させられるようになります。そうした自己観察が自分を深め、時には失望しながらも、成長していくきっかけになるのです。
「ストレイ・シープ」は美穪子が自分自身にも投げかけた言葉で、聖書の「迷える子羊」を連想します。罪のため神から離れてしまった人間の状態をそう表現したもので、そうした自覚が人間としての成長を促すことになります。
漱石が、三四郎と美穪子が出会う場所としたのが東大本郷キャンパスにある池で、そのため「三四郎池」と呼ばれています。
不幸な愛の結末
『それから』は、学校卒業後も働かずに親の援助で暮らしている代助が主人公です。この小説がセンセーショナルなのは、代助が過去に思いを寄せながら、ある事情で友人と結婚するようになった女性に再接近し、彼女と一緒になるという不倫の物語だからです。
数年ぶりに東京に戻ってきた友人と女性は暮らしぶりも夫婦仲もよくなく、友人は、子どもを亡くして自分も病気がちな妻を家に残し遊び歩いているらしい。彼の方が彼女を幸せにできると思って身を引いたのに、と代助は後悔とともに彼女への思いを再び募らせるようになります。
実業家の父から資産家の娘との縁談を勧められたのがきっかけで、代助は結婚したい女性がいることを父に伝え、ついに勘当されます。代助と彼女との関係は、友人から代助の父にすでに知らされていたのです。
小説は、女性と一緒になった代助が、彼女を養うために仕事を探しに行くところで終わります。恋愛と結婚との違いは、端的に言えば扶養の義務があるかどうかです。結婚を見通した恋愛は、家庭生活を裏付ける経済も視野に入れる必要があります。仕事も愛情の重要な要素というのが現実でしょう。
前二作に次ぐ『門』は、宗助と御米(およね)の夫婦の物語です。宗助の親友の内縁の妻だった御米を奪った宗助は、大学を中退し、親も親戚も捨てて彼女と一緒になります。しかし、罪なことをしたとの負い目から、役所勤めをしながら、世間に目立たないように暮らしていたのです。
子どもを三度授かりながら、三人とも亡くしてしまった御米は、占い師に「かつて人に対して済まないことをしたからだ」と言われ、夫婦は精神的に追い込まれます。
宗助は親しくなった家主との会話で、彼の友人が妻の前夫だと知り、恐怖を覚えます。そして、鎌倉の禅寺を訪ね、師について禅の修行を始めました。しかし、いくら坐禅をしても悟りが得られそうにない自分に気づき、10日ほどで寺を去ります。門の前までは来たが、門を通って入ることのできない自分だと知り、今のままで生きていこうと思うのです。
気がかりだった役所の人事も終わり、今まで通り勤められるようになった宗助は、「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と言う御米に、「うん、でもまたじき冬になるよ」と下を向いて答えるのでした。今を精一杯生きることが禅の教えでもあります。