機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」日本人のこころ〈106〉

日本人のこころ〈106〉local_offer

ジャーナリスト 高嶋 久

犬養孝 『万葉の大和路』

感性豊かな万葉人

日本最古の歌集『万葉集』は雄略天皇(在位456~479年)時代から8世紀までの、天皇から貴族、下級官僚、防人(さきもり)、乞食(ほかひびと)まで、あらゆる階層の人たちの歌4500首が収録されています。当時の人々が身分や階層を超えて自分の心を詠んでいるので、そこから歴史や文化、民俗などを知ることができます。

大伴家持(おおとものやかもち)の歌に「うらうらに照れる春日にひばりあがり こころ悲しもひとりし思えば」がありますが、3月になると平城宮跡ではヒバリが賑やかにさえずり始めます。家持が春の花、堅香子(かたかご=カタクリ)を詠んだのが「もののふの八十(やそ)乙女らが汲み乱(まが)ふ 寺井の上の堅香子の花」で、官僚として越中(富山県)に赴任した時の歌です。大勢の乙女が水を汲んでいる寺の境内の泉のほとりに、カタクリが咲いていたのでしょう。花に託して、春を迎えて浮き立つ自分の心を示しています。同時に、花の特徴をよく観察していて、それを歌に表現しています。感性豊かな万葉人は植物の小さな変化も見逃さないのです。

防人の妻の歌「防人に行くは誰が背と問ふ人を 見るが羨(とも)しさ物思ひもせず」には、無事に帰って来てほしいと願いながら、もしかしたら夫は帰って来ないかもしれないという気持ちが込められています。『万葉集』の選者とされる家持が、いろいろな人の生き様をよく見、聞いていたことが分かります。人への深い思いでは、柿本人麻呂は妻を葬った悲しみを「衾道(ふすまじ)を引手の山に妹を置きて 山路を行けば生けりともなし」と詠っています。

有名な「しろがねも金(くがね)も珠もなにせむに 勝れる宝子にしかめやも」の山上憶良(やまのうえのおくら)は、かわいい息子が看病のかいもなく亡くなった時に「若ければ道行き知らじ賄(まひ)はせむ下方(したへ)の使負ひて通らせ」「布施置きて吾は乞ひ祷(の)む欺かず直に率行(ゐゆ)きて天道知らしめ」と詠んでいます。

前の歌は、若いので道行きも知らないから、われらの贈り物で、黄泉(よみ)の使いよ、わが子を背負って行っておくれ、後の歌は、布施を置くから、わが子が道に迷わないよう、天の道を教えてください、との意味です。子を思う親の気持ちと共に、当時の人たちの死生観もうかがえます。たくさんの悲しみを体験したからこそ、憶良は人への思いを深めたのでしょう。

事件がらみの歌としては、額田王(ぬかたのおおきみ)の「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る」が有名で、後に起こる壬申(じんしん)の乱を想起させる関係性が指摘されています。

この時点で、額田王は天智(てんじ)天皇の宮廷に召されていましたが、その前は、この歌で袖を振っている大海人皇子(おおあまのみこ:天智天皇の弟で後の天武天皇)の妻で、一女をもうけています。つまり、天智天皇の弟であり、かつて親密な仲だった皇子が、愛を求めるように袖を振るので、野守に見られるかもしれないのに、と心配しているのです。

天智天皇の没後、弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子との間で起こった皇位継承争いが672年の壬申の乱で、日本史上最大の内乱とされています。戦に勝った大海人皇子は都を再び飛鳥に移し、即位して天武天皇となりました。

当時の結婚は男性が女性の元に通う通い婚なので、一夫一婦制が普通の今の時代とは違います。ですから、今の常識ではスキャンダラスな関係ですが、額田王はあっけらかんと、そんな歌を宴席で詠んだのです。

歌いながら山の辺の道を

日本は言葉に特別な力が宿るという考えがあり、柿本人麻呂は「敷島の大和の国は言霊の 助くる国ぞまさきくありこそ」と詠んでいます。自然の中に特別な力があるという感覚を持っていたのが古代の日本人です。言葉にしても、文字が作られる前から音があり、声を交し合う空間で、長い間人々は暮らしてきたのです。

人麻呂の「大君(おほきみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも」は天武天皇、持統天皇に捧げられたと考えられていて、天皇を神として崇める思想が出てきます。

『万葉集』の最初にある雄略天皇の歌も、私がこの国を治めていると宣言するような内容です。家持の歌の一節「海行かば水浸く屍(かばね)山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」は先の大戦で、出征兵士を送る歌として歌われましたが、元々は天皇の親衛隊だった大伴氏と佐伯氏に伝わる戦闘歌謡です。大仏造立(ぞうりゅう)に使う金が奥州で発見された折の聖武天皇の詔に、その歌謡の一節が引用されていたことから、天皇はわれら氏族を忘れていないと感激して長編の歌を作ったのです。

学徒出陣の学生たちの多くが『万葉集』や和辻哲郎の『古寺巡礼』を持って奈良を訪れたそうですから、奈良には日本人の原点に触れるものがあったのでしょう。

奈良を紹介する時によく使われる「あをによし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり」は、役人の小野老(おののおゆ)が大宰府にいた時、都の繁栄を思って詠った歌です。

私は学生時代、『万葉の大和路』(旺文社文庫)などの著書がある大阪大学名誉教授の犬養孝先生に教わった万葉の歌を口ずさみながら、同好の士と天理から桜井まで「山の辺の道」を歩いたことがあります。その途上、志貴皇子(しきのみこ)の「采女(うね)の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く」の歌碑があったのを懐かしく思い出します。采女は後宮の女官です。