機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」日本人のこころ〈107〉

日本人のこころ〈107〉local_offer

ジャーナリスト 高嶋 久

東 昇 『力の限界』

国産初の実用電子顕微鏡を開発

東 昇(ひがしのぼる:1912~82)は国産初の実用的な電子顕微鏡の製造者で、日本ウイルス学会会長、京都大学ウイルス研究所所長、日本電子顕微鏡学会会長、国際電子顕微鏡学会連合総裁なども務めた世界的な科学者です。同時に熱心な念仏者で、浄土真宗の寺で講演や法話をし、自然科学と宗教のかかわりを書いた『力の限界』(法蔵館)などの著書もあります。

光の代わりに電子線を使って対象物を見るのが電子顕微鏡で、1931年にその基礎研究と開発に成功したドイツ人物理学者のエルンスト・ルスカは86年にノーベル物理学賞を受賞しています。現在、電子顕微鏡の製造が世界一の日本で、国産第1号の電子顕微鏡を組み立てたのは40年、大阪大学の菅田榮治教授です。

鹿児島に生まれ京都大学医学部に進んだ東が1933年に手にしたのは、ドイツ語の電子顕微鏡の参考書で、当時、それが唯一の資料でした。医学研究には倍率の高い電子顕微鏡が必要だと考えた東は、東京の理化学研究所に私費留学し、大河内正敏研究室で日立研究所の笠井官所長の指導を受け、5万ボルトの電圧発生や真空技術を修得し、50倍の撮影に成功しました。それが大阪大学の製品の1万倍という実用レベルの電子顕微鏡につながったのです。私費留学の費用は、母が田畑を売って工面しました。

かくれ念仏

東大志望の東に、京大を勧めたのも母で、それは浄土真宗の宗祖・親鸞のゆかりの地だったからです。『お念仏とともに 父・東昇を想う』( 探究社)を書いた娘の藤井雅子によると、東は「胎内にいる時から母親のお念仏を聞いて育ったんだよ」と語っていて、母に「親鸞聖人が生まれて、法然上人に会われた、お浄土の地である京都で学んでほしい」と頼まれたそうです。

東が生まれた鹿児島県川辺町(現・南九州市川辺町)は江戸時代からの「かくれ念仏」の里です。浄土真宗(一向宗)が鹿児島に伝わったのは、室町時代中期の1505年頃で、一向一揆を恐れた薩摩藩主・島津義弘は慶長2年(1597)に真宗を禁じました。「阿弥陀如来の前で全てのいのちは等しい」という教えが人々を結束させ、1488年には加賀守護の富樫政親を滅ぼし、門徒らによる自治政府を樹立したほどだったからです。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など戦国武将たちの多くが一向一揆を怖れていました。

弾圧のなか真宗信者は講を結成し、ひそかに山深い土地や洞穴の中、船上などで法座を開くようになります。役人に見つからないよう、雨や嵐などの深夜を選び、人里離れた山中の「ガマ」と呼ばれる洞穴に仏像や仏具を隠し、法座を開いていたのです。

幕末になると、国学に傾倒した藩主・島津斉彬などの影響で弾圧は仏教全般に及び、藩は大砲製造の金属を得るために仏像や仏具を供出させ、さらに戦費のため寺領を没収しました。水戸藩などと同様、明治の廃仏毀釈を先取りする歴史でした。しかし、信仰は弾圧によって消えるものではありません。

鹿児島に「信教自由の令」が布達されたのは明治9年で、キリスト教禁制の高札を撤廃した明治6年に遅れること3年でした。京都の西本願寺はただちに鹿児島開教に着手し、鹿児島別院を明治11年に建て、西南戦争罹災民救済、学校建設、殖産などに貢献しました。今では鹿児島最大の仏教徒を擁するのは浄土真宗で、法難がもたらした実りでしょう。その中に、東の母けさもいました。東は母のことをいつも「けささん、けささん」と呼んでいたそうです。

『歎異抄』で信仰に目覚める

高校時代から『歎異抄』を読んでいた東は、京大医学部に入学後、同郷の川畑愛義の紹介で親鸞寮に入り、京都大学親鸞会のメンバーとして活動しながら、池山栄吉大谷大学教授の指導のもと、その教えを学ぶようになります。当初は、他力より自力に引かれていましたが、自身の煩悩や罪に目覚めるにつれ、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉で信仰に目覚めたそうです。

『力の限界』で東は「自然科学者のはしくれである私は、同時に宗教的な人間でもあります。私におきましては、科学と宗教は矛盾なく同居・共存しています」と述べています。東は電子顕微鏡を使ったウイルス研究で日本の基礎医学発展に貢献し、がんを引き起こすウイルスを発見して話題になりました。しかし、「ウイルスの自然界における性質の変化を予知することは科学の力をこえているのです。私はウイルス研究の専門家として、このようなところに現代科学の限界のひとつを見るのです」とも語っています。科学的知見からも、浄土真宗のいう「他力」による救いを感じていたのです。科学の最先端にいるが故に、東はその力の限界を知っていたのでしょう。

私は学生時代の1968年、仲間と始めた市民講座の講師に招いたのがきっかけでかわいがられ、何度か山科の自宅も訪ねました。東と同郷の川畑愛義からは教養部時代に保健体育を習いました。自宅を訪ねると、同郷の夫人は「短刀を渡され、嫁いできたのよ」と、いかにも鹿児島らしい新婚時代のエピソードを話してくれました。