日本人のこころ〈96〉local_offer日本人のこころ
ジャーナリスト 高嶋 久
賀川豊彦 『友愛の政治経済学』(中)
信仰と愛の実践
賀川豊彦の人生を特徴づけるのは、圧倒的な信仰と実践の相乗効果です。信仰が実践を生み、実践が信仰を深化させています。それを間近に見てきた長男の賀川純基(すみもと:1922~2004)さんに、亡くなる1年前の03年、館長を務める賀川豊彦記念・松沢資料館を訪ね、インタビューしたことがありますので、その概要を紹介しましょう。
――賀川豊彦はどんな人でしたか。
賀川豊彦は詩的キリスト教徒と評されたように、散文詩で信仰を書いていて、「神に溶けゆく心」は仏教的な印象で、神人合一のような誤解されかねない表現もあります。賀川は教会の中に留まらず、外に出て神の愛を実践しました。悩み多い所でキリストと一緒に悩む生き方です。明治42年12月24日のクリスマスイヴに神戸のスラム、新川に入ったのはまさに画期的なことでした。
若いころ、病気のため二度も臨死体験をした賀川は、「なぜ自殺しないのか 神様がこういうふうに自分をつくられたのだから 自分はそう生きればいいのだ」という詩を書いています。どんなに弱い人間でも、神はその弱さを利用して用いる。神は私を悩むようにつくった、だから私は悩めばいいのだ、と賀川は信仰的に開き直りをしたのです。
――賀川は多くの事業を手掛けました。
賀川の特徴は愛の実践としての事業にあります。新川に入ってすぐに書き始めた日記『狂熱伝道』には、右半分に伝道を、左半分に事業を書いて、初めから伝道と事業は一緒でした。事業では思想の違う人とも一緒に行動しています。消費組合では、唯物論を否定しながら、唯物論者と一緒に実践し、労働者とも資本家とも親しくなりました。
賀川が生みの親といわれている協同組合の原点は修道院にあります。中世の修道院は自給自足の生活で、必要なものは全部自分たちで作っていたところから、小麦やブドウなどの農業や牧畜、また農機具のための鍛冶屋などあらゆる職能(ギルド)が発達しました。それを一般社会の中に作ろうとして始めたのが賀川の消費組合です。生協の標語「一人は万人のため、万人は一人のため」は修道院の生活です。
大正10年に創立した「イエスの友の会」は在世の修道院を目指し、看護師や大工、店員など職能ギルドが大事にされ、「イエスにありて敬虔であること」などの五つの綱領のほかには何の条件もなく、どの教派からも参加できました。関東大震災ではボランティアで救援に行き、大正13年に始めた復活共済組合が日本の共済事業の出発点です。賀川は農協共済や漁船保険の父とも言われ、社会党の松岡駒吉が国会に提案した国民健康保険の原案を作ったのも賀川です。
――農民学校も作っています。
教育も大事にした賀川は、労働大学や農民福音学校を作り、助け合って生きることを教えたのです。賀川の教育の出発点は「独立、労働、自尊、しかして他愛」で、貧民街の人にはそういう意識が欠けているのを感じていたのです。
賀川はたくさんの本を読み、行動し、書きました。私が小さいころ、我が家には家族のほかに20人もの人が一緒に住んでいましたが、賀川は家族だけの生活も大事にして、どんなに忙しくても、家にいる時は毎朝一緒に聖書を読み、お祈りをしてから食事をし、夏休みには私を連れて伝道旅行に出かけていました。私を育てながら幼児教育の本を書いたので、いわば私がモデルになったのです。
――賀川が提唱した「友愛の経済」とは?
EU(欧州連合)の前身であるEC(欧州共同体)議長をしていたイタリアのコロンボ外相が1976年に、日本の国会に宛てたメッセージに、「賀川豊彦の提唱した友愛の経済」という言葉がありましたが、国会はそれが何のことか分かりませんでした。1936年、カルヴァンの宗教改革400年を記念し、賀川がジュネーブに招かれて講演したのが「ブラザーフッド・エコノミックス(友愛の経済)」です。その講演録は23か国語に翻訳されたのですが、なぜか日本では翻訳されていません。(講演を基に2009年、コープ出版から『友愛の政治経済学』が出た)
1950年にフランスのシューマン外相が出したシューマン・プランがECのスタートですが、当時、賀川は伝道に招かれていたイギリスから毎日新聞に寄稿し、「これは私が言っている世界国家への一つのステップだ」と書いています。日本大学の森静朗商学部教授も「ECの経済は賀川豊彦の影響を受けている」と言っています。
最近、客観的な立場から賀川を再評価する人たちが増えています。2002年に農民福音学校があった鳴門市に建てられた賀川豊彦記念館は、講座を開くなど賀川を通して社会を見ようとしています。
宋美齢のラジオ放送
――蒋介石夫人の宋美齢も賀川を深く尊敬していました。
先の大戦で日本が敗れた時、中国国民党の蒋介石総統が「恨みに報ゆるに徳を以てす」との布告を出し、日本人を帰国させ、賠償もとらなかったのはよく知られています。蒋介石はクリスチャンの家庭に育った宋美齢との結婚を機にキリスト教徒になっていました。賀川と共に神の国運動で巡回伝道をした黒田四郎は、昭和14年12月23日、次のような宋美齢のラジオ放送を聴いています。
「私は日本人が憎い。日本軍のやることは絶対に許せない。しかし、私は日本を滅ぼしてください、日本軍人を皆殺しにしてください、と祈ることはできない。それは、日本にドクターカガワがおられ、今も中国人のために涙の祈りを神にささげていてくださるからです」。黒田は、「まさしく天使の声、重慶からの放送と思えず、まさに天国からの放送であった」と、その時の感動を記しています。
賀川は何度も伝道旅行で中国に行き、また協同組合運動の指導にも招かれていて、中国人に謝る詩「涙に告ぐ」も書いています。賀川に対する宋美齢の尊敬が、蒋介石の日本への対応に影響を与えたことは想像に難くありません。