機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・絵画編(33)

芸術と家庭・・・絵画編(33)local_offer

岸田泰雅

家族を描いた「穏やかな情景」

ロシア芸術を支えた巨匠

イリヤ・レーピン(1844~1930)は、19世紀後半から20世紀初頭に活躍した、ロシアを代表する画家です。1844年にロシア帝国のチュグエフ(現ウクライナ)で生まれ、幼少期から絵画に親しみました。

サンクトペテルブルクの美術アカデミーで学び始めると、早くから才能を認められ、1871年には《ヤイロの娘の復活》で最高賞の金メダルを獲得。ヨーロッパ留学の機会を得ます。

留学中から構想を練って1873年に完成させた《ヴォルガの舟曳き》は、彼の代表作として知られています。ヴォルガ河畔で重い船を曳く労働者たちを描いたこの作品は、当時の社会的現実を浮き彫りにし、ロシア美術の象徴的な存在となりました。

1873年からは、パリやノルマンディに滞在し、フランス印象派の絵に触れます。光や色彩への新しい感覚に強い関心を抱きながらも、自身の写実主義をさらに深化させ、ロシア的な精神性に根差した表現を確立させていきました。

その後、ペテルブルクに戻ったレーピンは《クルスク県の復活大祭の十字行》、《1581年11月16日のイヴァン雷帝とその息子イヴァン》や《トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック》など、ロシア美術史に残る名画を次々発表します。

1894年には美術アカデミーの教授に就任し、多くの後進を育成しました。20世紀に入ると、不安定な社会情勢の中でも制作を続け、歴史画や肖像画で卓越した表現力を発揮しました。

内面を掘り下げた精神的な描写

レーピンはロシア写実主義の旗手として、庶民の生活や社会的矛盾、歴史的事件を緊張感のある構図と深い心理描写で表現しました。フランス滞在中に触れた印象派の光の表現を取り入れつつも、彼の作品にはレンブラントを思わせる強い明暗の対比と精神的深みが見られます。

強い光で主要な部分を浮かび上がらせ、深い闇との対比で内面の葛藤や悲劇性を際立たせることで、人間の内面劇を描き出すドラマ性を獲得しました。

《背の曲がった男》(1881年)、《フセヴォロド・ガルシンの肖像画》(1884年)、《作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像》(1881年)などに見られる表現は、単なる写実や印象派という枠に収まりません。

ベストセラーになった中野京子著『怖い絵』シリーズにもレーピンの作品は複数紹介されていますが、「怖さ」や「不気味さ」に留まらず、人物の精神のひずみや社会の暗部を鋭く照らしだすものとして読み解くことができます。鑑賞者が思わず立ち止まり、作品の奥に潜む心理や物語を探りたくなるのは、彼が外形描写を超えた精神の震えそのものを描き出しているからと言えるでしょう。そうした点で、レーピンはどこまでも「内に沈み込んでいく」ドストエフスキー的な性格を備えた画家であり、彼がロシア画壇の巨匠とされる理由が分かります。

「美」と「愛」の葛藤

Repin

レーピンは1872年に、ヴェーラ・シェフツォワと結婚し、4人の子供に恵まれました。しかし、彼の芸術活動に没頭する生活は次第に家庭とのあつれきを生み、1887年に二人は離婚します。

1879年に制作された《あぜ道にて―畝を歩くヴェーラ・レーピナと子どもたち》は、自身の妻と子供たちをモデルに描いたものです。レーピン特有の写実的な観察眼と、家族への温かなまなざしが調和した、穏やかな情景が感じられます。

この作品から、わずか8年後に二人は離婚してしまうのですが、その原因はどこにあったのでしょうか。レーピンは自宅に多くの知識人や芸術家を招き、訪れた女性たちに絵のモデルを頼むことも少なくありませんでした。家庭でありながらサロンのような空間だったレーピン家は、妻にとって大きな負担だったのではないかと推測されます。

芸術の「美」の追求と、夫婦の「愛」の生活の両立という問題は、多くの芸術家が直面する課題です。それらを葛藤ではなく、調和・統一させることができれば、至高の芸術と至高の夫婦愛が実現するのかもしれません。

晩年、レーピンはフィンランドのクォッカラに土地を購入し、「ぺナトゥイ」と名付けた自宅を建てました。ここで内縁の伴侶であるナタリヤ・ノルドマンと過ごしながら、自然に囲まれた静かな環境で制作を続けます。1930年、86歳でその生涯を閉じるまで、彼はロシア美術の象徴的存在として、時代を超えて人々に影響を与え続けました。

【参考図書】『レーピンとロシア近代絵画の煌めき』籾山昌夫著、東京美術『ヴォルガの舟ひき』イリヤ・レーピン 著、松下 裕訳、中公文庫